足羽山招魂社
由緒
元治元年(1864)京都堺町禁門ノ変にたおれた福井藩士7名ならびに、明治元年戊辰の役殉難者12名を慰めるため、明治3年9月にこの地に墓碑を建て、招魂場と呼んで旧福井藩軍務寮がこれを守護してきた。
明治6年7月旧藩主松平慶永(春嶽)・茂昭両公などが建議して御社殿を造営。同年9月12日前記19柱を合祀して招魂社と称することとなった。
その後西南の役、日清・日露戦争の国事殉難者をも合祀し市民の崇敬いよいよ篤く明治34年に官祭招魂社、昭和14年には足羽山護国神社と称したが、さらに大東亜戦争における戦没者(6944)柱の霊を合祀し、昭和36年12月、現在の足羽山招魂社に改められた。
祭事は明治8年から大東亜戦終末までは官費による祭祀料を賜わり、毎年福井市がとり行なった。この間明治天皇、大正天皇、昭和天皇の幣帛御下賜もあり、全市民の聖地として讃仰されたが、昭和20年7月戦災のため焼失、戦後は国内情勢により公費の護持は絶たれ御社殿は荒廃し例大祭も中止のまま戦没者の御遺族をはじめとし、心ある崇敬者を嘆かせていた。
昭和30年御英霊奉賛の同士が相はかり足羽山招魂社奉賛会(歴代福井市長が歴任)を設立、市民各位の深い理解と念願により例大祭を復活し、同36年御社殿再建の熱望が高まり御造営を計画し、昭和37年3月着工、翌年4月に竣工をみるに至った。
以後、町村合併に伴い、英霊は合祀され、現在8,306柱となる。
御祭神
福井出身将兵戦没者之霊、旧福井藩士卒之霊、計8,306柱
鎮座地
福井市山奥町60-1